Jビレッジまでの通信回線を確保せよ! 3.11時に起きた筆者の些細な出来事
2011年3月11日14時46分、東日本大震災が発生、東北地方を中心に未曽有の災害をもたらしました。
あれから9年の歳月が過ぎました。9年間と言えば、子供が小学校に入学して中学校を卒業までの期間。月日が過ぎるのが早いと思いながらも、東日本大震災は日本人にとって永遠に忘れてはいけない、心に刻み込むべき災害です。
そして今月ノンフィクション作家である門田隆将著の書籍「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」を映画化した「Fukushima 50」(フクシマフィフティ)が公開されました。この本は日本を命がけで救った方々の真実の記録が書かれています。
引用:角川映画様サイト
2019年12月時点で、震災による死者・行方不明者は1万8,428人、未だ行方不明の方が2,500人以上、今なお3万人以上の方が仮設住宅での暮らしを余儀なくされています。
震災で亡くなられた犠牲者の方に改めてお悔やみを申し上げます。
筆者は震災当日、出張先であるJR新川崎駅の近くのビルに入ろうとした寸前に地震に見舞われました。立てないほど揺れ、ツインタワーのビルを見上げると、ビルがゆっくりと大きく動き、壁面や窓ガラスが崩れ落ちてきたらひとたまりもないと身の危険を感じ、よろけながらその場を離れ、揺れが収まるのを待ちました。
何時間か過ぎた後、ビルへの入場が許され、24階まで非常階段で訪問先に向かい合流。一夜を過ごしたビルで見た津波の被害映像は想像を超える悲惨なものでした。
すぐに海外の大使館員、外資企業の方は日本を離れ、入れ替わるように世界中のジャーナリスト、支援部隊が入国します。
今でも思い出しますが、どうにも手の施しようのない悲惨な現地の状況に、毅然と、果敢に、規律を乱さず、他人を敬い、先の見えない困難に立ち向かう日本人の姿が世界中に配信されました。筆者も彼らが配信した記事を読んで心底感動したことを昨日の出来事のように覚えています。
筆者の出来事
当時、筆者はなんとか帰宅した後に、テレビで福島第二原発施設が水素爆発する映像を、固唾を飲んで見ていました。しばらくして交通網が復旧し、会社に出勤。そして数日が経ったある日、筆者は事業部長室に呼ばれました。
それは重要な任務の指示で「福島第二原発の被害対策前線基地であるJビレッジまでの通信網を確保せよ!」というものでした。
引用:東京新聞様サイト
筆者への指示は日立製作所の社長、通信ということで当時筆者が所属していた通信事業部の事業部長、事業企画本部長、そして筆者。4ホップで筆者がその重大な任務に就くことになりました。
聞けばJビレッジまでの通信経路は移動体通信網しかなく、当時は3Gが主流、回線は混んでおり、転送速度は良くて数百Kbps、しかも切断が多発している状態でした。PHSも利用されていたと記憶しています。
原発の被害拡大を防ぐために膨大な技術データをJビレッジまで届ける(通信)必要があり、もう待ったなしの状態でした。
事業部長室は即座に「Jビレッジまでの通信網確保対策室」になり、事業部長、本部長も必死に情報収集に奔走開始。そして次第に通信網の惨憺たる状況がわかってきました。
- 通信キャリアの固定系局舎は津波で稼働不能。
- 電力会社の自営の光通信網が寸断され通信不能。
筆者は代替手段を検討していました。2009年に公開された「サマーウォーズ」で観た自衛隊のミリ波通信を利用できないか、などいろいろ思案したあげく、衛星通信を利用することを思いつきました。
時間がありません。すぐに衛星通信のサービス提供をしている会社へ片っ端から電話をかけまくりました。
大量のデータを送るには通信衛星のトランスポンダーを丸ごと借りる必要があります。何社も電話しました。電話は繋がるものの得られる回答は「前例がない」「現状のサービスがあるので対応できません」皆同じ返答で正直くじけそうになりました。
しかし現地の苦難を思いながらあきらめずに海外の衛星通信キャリアにまで対象を広げ電話をかけまくりました。
そして会社名の記憶が確かではないのですが、恐らくタイ国のIPSTAR社だと思います「わかりました。少しお時間をください」と支援に前向きな回答を頂くことができました。
その返事に一縷の望みをかけつつも、油断はできません。返事があるまで他の会社に電話に電話をかけ続けましたが全てNGでした。
そして数時間後、前向きな解答をして頂いた海外の衛星通信会社から電話があり「全面的に協力させて頂きます。トランスポンダー確保の目途も立ちました。」と感激で涙がでそうな回答を頂戴しました。
すぐに事業部長に報告、具体的な具申書を即座に作成し、翌日朝一に本部長と某部署に報告。わたしの役割はそこまででした。その具申書がその後どうなったかは不明でした。
その後にわかった「Jビレッジまでの通信網確保せよ!」の結果
しかし数か月後、あるIT系の展示会で某キャリアのブースのパネルに筆者は釘付けになりました。そこには「東日本大震災への取り組み」と書かれたパネルが展示してありました。そのパネルの通信構成図は「Jビレッジまでの通信網確保対策室」が具申したままの絵が描かれていました。
筆者が携わった具申書で、パネルにある通信経路が確保できた確証は全くありません。しかし具申した通信経路が実現したことは事実です。
パネルを見つめながら、あの衛星通信会社の献身的努力に改めて感謝の気持ちで一杯になりました。筆者の電話を受けた方は間違いなく本国と困難な交渉をしてくださり、全面的な協力を申し出てくれたものと思います。
この場を借りて心より御礼申し上げます。
以上は筆者のささいな出来事です。
3.11から9年経った今
東日本大震災では述べ800万人の自衛隊の方が全国から駆けつけ、日本赤十字、全国の警察・消防・自治体、ボランティア、そして海外の支援部隊などが災害支援に協力しました。
震災直後の帰宅困難者は徒歩で帰宅するもコンビニや、心ある店舗が食事、水、トイレなどを提供しました。たくさんの国民が様々な形で国難に団結し協力しました。
中でも自衛隊とアメリカ軍の「トモダチ作戦」には今でも尊敬の気持ちで一杯になります。アメリカ軍は海軍・海兵隊・空軍が参加し、のべ2万人以上の隊員が放射能汚染地域まで踏み込み災害救助にあたりました。我が国日本にこれまで献身的に貢献してくれる国が、世界中探してアメリカ以外にあるでしょうか。
引用:外務省サイト
航空自衛隊松島基地はブルーインパルスの機体以外は全機水没、基地自衛隊員は家族の捜索より市民の救助を優先しました。
引用:Yahoo様サイト
被災者の方々、そして日本国民の眼には彼らの活動に対して、神が宿っているように見えた方もたくさんいたかと思います。
あれから9年。筆者が在籍していた事業部はなくなりました。時間が経つのは本当に早く、時に合わせるかのように環境も大きく変化しています。
先の東日本大震災時で困難に果敢に立ち向った姿で世界中の人々が畏怖を感じ、尊敬された日本国民は、東日本大震災時の経験を心に置き「無理が通れば道理が引っ込む」「自分さえ良ければ」といった行動を決してしてはならないと思います。
※アイキャッチ画像はNHK様サイトから引用しました。
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