砂の器 無くならない差別
新型肺炎ウイルス感染拡大の中で、世界各地で感染者、完治者、はたまた感染国という理由だけで蔑視され、差別されて実際に、街の入り口にバリケードを張り、入ることすら許さない映像がソーシャルメディアなどで拡散されています。
実はかつての日本でも同様な、科学的根拠もなく人々を差別し、排除した歴史があります。
それは「ハンセン氏病」。
そしてこの「ハンセン氏病」に真っ向から取り組んだ映画が「砂の器」です。
引用:『砂の器』 ©1974・2005 松竹株式会社/橋本プロダクション
2月20日のブログの最後でも紹介させて頂いた映画です。
今回改めてこの時期に、この映画の深淵について紹介したいと思います。
映画「砂の器」
原作は1961年に読売新聞に連載され、後に橋本忍氏、野村芳太郎氏らによって10年に及ぶ執念と歳月をかけて「砂の器」は映画化されました。
ストーリーはもうテレビで何回もドラマ化されているのであえて説明する必要はないと思いますが少しだけ。
石川県の寒村で本浦千代吉がハンセン氏病にかかり村八分に。千代吉は自分の子、本浦秀夫の将来を案じ行く当てのない遍路の旅に出ます。
引用:『砂の器』 ©1974・2005 松竹株式会社/橋本プロダクション
しかし村を出ても行く先々で差別に会い、やがて想像を絶する苦難の旅は”亀嵩”の駐在所巡査、三木健一の人間愛に出会うことで終わります。戦後の戸籍焼失に伴う戸籍回復処置を使い、秀夫は和賀英良と名を変え、音楽家として成功します。
引用:藝術大全様サイト
しかしその後の三木健一の人間愛が仇になり、殺人事件に。
この事件を今西栄太郎(丹波哲郎)、吉村弘(森田健作)の刑事コンビが追い、和賀英良の逮捕に至ります。
ラスト約40分で感動的な交響詩「宿命」が流れる中、四季を織り交ぜ本浦親子が辿った遍路の旅、事件の真相を語る今西栄太郎(丹波哲郎)の映像と語りに心が震えます。
引用:『砂の器』 ©1974・2005 松竹株式会社/橋本プロダクション
今西栄太郎が涙する時、観る者は皆涙したのではないでしょうか。
砂の器との出会い
1974年に公開された映画「砂の器」。恐らく筆者はこの映画を20回以上は観ていると思います。
高校2年の時に友人から「凄い映画がある、観に行こう」と誘われ、土曜日の学校帰りに小田原から水道橋まで遠征し、後楽園にあった映画館で観たのが初めてでした。
わたしと同世代で映画好きの方なら「砂の器」は恐らく日本の映画ベスト10に入っているのではないでしょうか。
それほど素晴らしい映画です。
その「砂の器」は2月27日時点でAmazonプライムに「デジタルリマスター版」がアップされています。久しぶりに観て本当に驚きました。
今に観て、感動し、泣ける真の傑作映画だと思います。
原作は松本清張氏、監督は野村芳太郎氏、脚本は橋本忍氏・山田洋二氏、音楽監督は芥川也寸志氏、そして最後の40分に流れる交響詩「宿命」の作曲者は菅野光亮氏。
わたしは松本清張の本をこの映画を観るまで読んだことはなかったのですが、以降松本清張の本を読みあさりました。
砂の器が映し出す人間愛と差別
筆者が「砂の器」で観て取れるのは人間愛と差別。
いつの時代でも差別は形を変えて存在し続けています。誤解で生まれた差別は次第に無くなり、しかしまた新しい差別が生まれ、人を傷付け、人を追い込みます。
貧富、公園、学校、会社、能力、学力、病気、生まれ、障害、リストラの選別など差別の種類は様々ですが、差別は時として姿を変えて「虐め」「排除」「蔑視」となり人を不幸のどん底の落とします。
「砂の器」はそうした差別によって排除された人間と、手を差し伸べる人間愛。
悲劇にもその人間愛が生み出す殺人事件。
「差別」という非条理で無情な世界を「砂の器」は見事に描き切っています。
差別は無くなるのか
差別は人類の歴史上存在し続けいます。差別はなくなりません。
強い人間は、差別された苦しい経験を糧にして、戦い、そして世間を見返す。
これも一つの選択肢です。
しかし和賀英良は三木健一の人間愛に耳を傾けることなく振り払い、見返すことに成功する寸前で崩壊します。
引用:『砂の器』 ©1974・2005 松竹株式会社/橋本プロダクション
人が存在する限り、あり続ける差別という不変の悪習、なんたる所以でしょうか。
そうした難しく、重たいテーマを10年にも及ぶ歳月をかけた映画ゆえ、今観てもなんら古臭さを感じませんし、観たものに感動と問題提議が沸き起こります。
筆者推奨の洋画 ブラザー・サン シスター・ムーン
余談ですがハンセン氏病を扱った筆者の好きな映画がもう一つあります。
1972年にフランコ・ゼフィレッリ監督がアッシジのフランチェスコを描いた「ブラザー・サン シスター・ムーン」です。
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アッシジは今やイタリア旅行の定番観光地です。
「ブラザー・サン シスター・ムーン」はアッシジを舞台にした映画です。
フランチェスコは近隣の戦争に潔く赴き、しかし病に倒れ、彷徨。そんな中ハンセン氏病患者を隔離した地域に手を差し伸べるクレアに出会います。
フランチェスコはクレアの人間愛に気づき、朽ちた教会の再建を始めますが、様々な差別と苦難が待ち構え、苦悩します。
そしてローマ法王に接見し、自分のしていることの是非をローマ法王に問います。そしてアッシジ教会再建の許しを乞い、叶うまでを描きます。
エンドロールに流れるドノバンの歌にひかれ、感動で涙が出ます。
「ブラザー・サン シスター・ムーン」はフランチェスコが壮絶な差別を受ける中、人間愛で己のすべきことを見出し、不屈の精神で大樹をなす姿で感動を呼びます。
フランチェスコがアレック・ギネス演じるローマ法王と接見するシーンは感涙ものです。
差別の根源
人を差別する心は、実は教育と大いに関係があると筆者は思います。
教育とは学校教育ではなく、親から子への人間教育です。
- 人のせいにする
- してもらってあたりまえ
- 異常なまでのクレーム
- 独りよがり
- 自分勝手
こうした差別を生み出す土壌、悪行は親の背中を見て子は学ぶ(?)ことでしょう。
人と交流し、ふれあうことで生まれる少しの幸福感、有難さに気づき、子に伝える。
何か悪いことをすると近所の人に叱られる。なにより親が一番厳しく叱りました。
昔は当たり前なことでしたが、時代の流れは早く移り変わり、なかなかその暇(いとま)がありません。
施しを受けたら、お返しをする。
言葉で「ありがとうございました」と言う。
人間教育とは実は簡単なことの積み重ねだと思います。
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